中小メーカーの経理部に勤めて5年。
直属の上司である部長・田辺さん(50代前半)は、仕事ができる人という評判だった。
少なくとも、私が入社したころは。
でも気づけば、私の仕事はじわじわと「田辺さんの私用」に侵食されていった。
「うちの親父の施設の書類、頼んどくわ」
最初はちょっとした頼みごとだった。
「経理のプロなんだから、書類の整理は得意でしょ。うちの親父が入ってる老人ホームの支払い関係、まとめておいてくれない?」
田辺さんの父親は会社の創業者で、数年前から認知症で施設に入所していた。田辺さんは3兄弟の長男で、弟2人も会社の役員を務めている。
——まぁ、一度だけなら。
そう思って引き受けたのが間違いだった。施設への送金確認、医療費の領収書まとめ、行政への申請書類のチェック……気づけば月に何度も「田辺父案件」の作業が私の机に積まれていた。
しかも本来なら3兄弟で分担すべき話だ。
「なんで弟さんたちに相談しないんですか?」と一度だけ聞いたことがある。
「あいつらは信用できない。俺が全部やる」
それだけ言って、田辺さんは話を終わらせた。
「相続の資料も整理しておいてくれ」と言われた日
半年ほど経ったころ、田辺さんはさらに踏み込んできた。
「親父の名義の不動産と会社株の整理、専門家に見せる前に資料をまとめておきたいんだよ。お前なら分かるだろ」
——これ、完全に業務外だ。
しかも聞けば聞くほど、弟役員たちには関係書類を見せていないという。田辺さんが「親父の意思を守るために俺が管理している」と言い張り、他の兄弟を意図的に遠ざけているのが透けて見えた。
私はただの経理担当なのに、いつの間にか「田辺さんが相続を独占するための裏方」にされていた。
断ろうとすると「お前しか頼める奴がいない」「経理部のことは全部俺が守ってやってる」と恩着せがましい言葉が返ってくる。
——守ってる? 私を使い倒してるだけでしょう。
怒りより先に、静かな疲れが来た。
「お前が辞めたら会社が回らない」
退職を決めたのは、ある月曜日の朝だった。
週末も施設からの問い合わせ対応を「とりあえず確認しといて」と頼まれ、休日返上で作業した。家に帰っても仕事が終わらない。子どもの授業参観にも遅れた。
もう限界だった。
翌日、私は退職届を人事に提出した。田辺さんへは事後報告になったが、就業規則通り1ヶ月前の届け出だ。問題はない。
田辺さんは顔色を変えた。
「は? お前が辞めたら会社が回らないんだけど。本気で言ってる?」
「はい。お先に失礼します」
荷物をまとめながら、私は内心思っていた。——会社が回らないんじゃなくて、あなたの”私用”が回らなくなるんですよね、と。
引き継ぎは通常業務の範囲で丁寧に行った。
ただし、田辺さんの「私用案件」の資料は最初から私のデスクに保管しないようにしていた。
業務外のものは業務外として処理していたから、引き継ぎようがなかった。
退職翌週、税理士の前で行き詰まった
有給消化に入って2週間ほど経ったころ、かつての同僚から連絡が来た。
「田辺部長、税理士さんを前にして、資料が全然まとまってないって大変なことになってるよ」
父親の相続に関わる書類を、田辺さんは自分では整理できなかった。私がやっていたから成り立っていたのだ。
しかも書類の穴が見えてきたことで、弟役員たちが「なぜ書類を独占していたのか」と問い始めた。
そして、田辺さんが父親の施設や相続に関する私用を、勤務時間中に経理部の部下へ繰り返しやらせていたことまで問題になった。
人事と総務が当時の指示内容を確認することになり、田辺さんが個人的な書類整理を部下に任せていた経緯も明らかになっていった。
「俺が全部やる」
その実態が、ようやく社内にも知られることになった。
辞めてから、ようやく取り戻せたもの
退職後、私は別の会社の経理職に転職した。
残業は激減した。週末に仕事の連絡は来ない。子どもの行事に全部出られるようになって、それだけで泣きそうになった。
あの日「お先に失礼します」と言えたこと、今でも正解だったと思っている。
田辺さんのその後は、同僚づてに聞いた程度しか知らない。ただ、社内調査は続いているらしい。
——私が関わることは、もう何もない。
さいごに
「お前しかいない」という言葉は、頼りにされているようで、実は逃げ道をふさいでいるだけだったりする。
静かに退職届を出したその一歩が、隠れていたものをまるごとあぶり出してしまった。
同じように、気づかないうちに誰かの”裏方”にされていると感じたことはありませんか?
※本記事は、実際の体験談をもとに作成しています。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
※本コンテンツ内の画像は、生成AIを利用して作成しています。



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