職場での居心地が少しずつ悪くなっていく感覚は、最初は気のせいかと思っていた。でも気のせいじゃなかった——そう気づいたとき、私はすでにスマホのメモアプリを開いていた。
「迎えに行くの? 今日も?」という小さな棘
子どもを保育園に預けて復職して、半年ほど経ったころだった。
直属の部長——40代の男性で、職場では「面倒見がいい」と評判の人だった——が、私が定時に退社しようとするたびに、少しずつ嫌みを言うようになった。
「今日も○○さんが子どものこと迎えに行くの? 」
声のトーンは低く、周囲には聞こえないくらいの音量で。笑顔すら浮かべながら。
最初のうちは「はい、失礼します」と頭を下げて帰っていた。でも週に2度、3度とこのやりとりが繰り返されるうちに、だんだんと足が重くなっていった。
「子どもを理由にするのはズルい」——手が震えた日
きっかけは、部内の小さなミーティングのあとだった。
残業を断ったとき、部長が他のメンバーの前でこう言った。
「子どもを理由にするのはズルいよな。みんなだって我慢してるんだから」
場が一瞬静まった。私は「すみません」と笑顔で席を外した。でも手が震えていた。
——これは、おかしい。
その夜、保育園から帰った子どもをお風呂に入れながら、私はずっとそのことを考えていた。言い返せなかった悔しさではなく、「この状態に慣れてしまったら、何が正しいのかも分からなくなる」という冷たい焦りだった。
翌朝、私はスマホのメモアプリに初めての記録を残した。日付、時刻、場所、その場にいた人数、部長の発言を一言一句。
「時短でリーダーは無理」「お迎えが理由なら辞めれば」——記録が積み上がる
それから約3週間、私は毎回欠かさずメモを取り続けた。
「時短勤務の人間にリーダーは任せられない」
「早く帰りたいなら、最初からそういう仕事に就けばよかったのに」
「子どものお迎えが理由なら辞めれば(笑) 選択肢はあるんだから」
発言のたびに記録した。日時、内容、その場にいた同僚の名前も添えて。
記録が20件を超えたあたりから、私の中で何かが落ち着いてきた。怒りや悲しみではなく、「もう十分だ」という静かな確信に変わっていった。
最後のひとことが出たのは、記録29件目の日だった。その日も部長の声は低く、笑顔だった。私は「はい」とだけ答えて自席に戻り、怒りではなく、決心で少し震える指で最後のメモを打った。
そして翌日、会社のハラスメント相談窓口——人事部内に設けられた匿名受付——に問い合わせのメールを送った。
29枚の記録を、テーブルに並べた
人事担当者との面談は、静かな小会議室で行われた。
私は29個の記録メモを日付順に並べてテーブルに置いた。担当者は黙ってそれを読み始め、途中で一度だけ「これ、全部ご自身でメモされたんですか」と聞いた。
「はい、毎回その場で」
担当者は少し間を置いて、「わかりました。社内調査を進めます」と言った。
調査は2週間ほどかかった。その間、部長の態度は不思議なくらい穏やかになっていた。何かを察したのかもしれない。
調査結果を見た瞬間、部長の顔から血の気が引いた
結果が出た日、部長は人事部長に呼ばれた。私はその場にいなかったけれど、後から聞いた話では、調査結果を示された瞬間、部長の顔から血の気が引いたらしい。
自分の発言が日時・場所・証言つきで29件、きれいに並んでいるのを見て、言葉が出なかったと。
調査の結果、部長には厳重注意と、翌月付けでの他部署への異動が決まった。
直接の謝罪はなかった。それは少し残念だったけれど、もう同じ部署で顔を合わせることはないという事実の方が、正直ずっと大きかった。
「お先に失礼します」が、当たり前になった
今は同じ職場で、新しい上司のもとで働いている。定時に「お先に失礼します」と言っても、誰も何も言わない。
当たり前のことが、当たり前に続いている。
保育園のお迎えで子どもを抱き上げるとき、ふとあの頃の「心の重さ」を思い出すことがある。でもそれは、もう過去の話だ。
さいごに
「子どもがいるから」という当たり前の事情を盾にされ、責められる理不尽さは、じわじわと静かに、でも確実に心を削っていきます。
相手の理不尽な言動に対して感情的にならず、淡々と事実の記録を積み上げ続けた彼女の選択は、自分を守るためのとても強い武器になりました。
もし今、同じような息苦しさや違和感を抱えているなら——その違和感は決して気のせいではありません。


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