隣に越してきた桐島さん一家と仲良くなったのは、子どもたちが同じ小学校に通い始めた春のことだった。
奥さんの桐島さん(仮名・40代)はいつも控えめで、夫の隆さん(仮名・50代)は外向きにはとにかく愛想がよかった。
でも何かおかしい、と気づくまでに、それほど時間はかからなかった。
「今月も……少し足りなくて」と小声で打ち明けてきた日
スーパーのレジ前で奥さんに声をかけられたのは、知り合って半年ほど経った秋口だった。
「ごめんなさい、また……少しだけ貸してもらえる?」
財布の中の小銭を数える手が、かすかに震えていた。
最初は「家計のやりくりが苦手なのかな」と軽く考えていた。でも話を聞くうちに、そうじゃないとわかってきた。
毎月渡される生活費は、四人家族には到底足りない金額。食費の端数が出るたびに、隆さんに「なぜそんなに使ったのか」と詰められるという。
「通帳は全部、主人が持ってて。私、自分のお金が一円もないの」
その言葉が、ずっと耳に残った。
「許可なく外出するな」夫の”管理”が子どもにも及んでいた
奥さんはそれまでにも、ぽつぽつと話してくれていた。
学校の集金袋を持ち帰るたびに「これは必要か?」と夫に判断を仰がなければならない。
修学旅行の積み立ても、習い事の月謝も、すべて許可制。PTAの集まりに出るときも「どこへ行く、何時に帰る、誰と会う」を申告しなければ玄関を出られない。
「子どもの参観日も、主人の許可が出なくて……一度行けなかったことがあって」
——それは、もう家計管理じゃない。
私は、奥さんがこれまで話してくれた内容をメモ帳に書き留めていた。日付と、彼女が話した言葉をそのまま。
記録しようと意図したわけじゃなく、自分が忘れないように、ただそれだけで。
あるとき奥さんは、私に小さく折りたたんだ紙を渡してきた。「捨てても全然いいんだけど」と言いながら。
そこには彼女の筆跡で、食費の内訳と不足額が細かく書かれていた。スーパーのレシートも一枚、一緒に挟んであった。
預かったまま、私の引き出しにしまっておいた。
——参観日に行けなかった、という言葉を聞いた日、私はもう聞き続けるだけでいるのをやめようと決めた。
「妻は金の管理ができない」夫の言葉を、相談員の前で聞いた瞬間
転機になったのは、市の広報に載っていた「配偶者暴力相談支援センター」の案内だった。
奥さんはなかなか自分からは動けなかった。「大げさかな」「私の我慢が足りないのかな」と繰り返すばかりで。
だから私は、一人で相談窓口に電話してみた。「当事者でなくても、近くにいる人からの相談を受け付けています」という言葉にほっとした。
相談員の方に勧められ、奥さんも一緒に窓口へ出向いた。
念のため、私の手元にあったものを全部持っていった。メモ帳。奥さんから預かった手書きのメモ。レシート。日付と金額がそこにあった。
後日、第三者を交えた話し合いの場に隆さんも来ることになった。彼はいつもどおり、にこやかに現れた。
「妻は金の管理ができないんです。だから僕がちゃんと見てあげてないと」
——その言葉を、相談員が静かに受け止めた。
そして手帳を開いた。
「では確認させてください。毎月の生活費はいくら渡していますか。お子さんの学校の集金はどのように処理されていましたか」
一つひとつ、丁寧に、数字で聞いていく。隆さんの答えと、手元の記録の数字が、噛み合わなくなっていった。
「この月の食費の不足分、奥さんのメモにはこう書いてあります」
相談員が紙を広げた瞬間、隆さんの顔から愛想のよさが、すうっと消えた。
夫が絶句し、支援が動き出した
それ以上、隆さんは多くを語らなかった。
相談員から経済的DVに関する説明がなされ、奥さんには生活費の確保や別口座の開設、必要であれば一時保護の利用も含めた選択肢が提示された。
隆さんには、今後の対応について支援機関と継続的に話し合うよう求められた。
あの「愛想のいい隣人」が、専門家の前で黙り込む姿を、私は少し離れた席から見ていた。
大声を出したわけでも、対決したわけでもなかった。ただ、日付と金額と彼女自身の言葉が書かれた紙が、そこにあっただけだ。
その後、隣から聞こえてくるもの
奥さんはその後、支援員さんとの定期的な面談を続けながら、少しずつ自分名義の口座を整えていった。子どもの集金も、自分で封筒に入れて持たせられるようになったと教えてくれた。
「参観日、今度は行けそう」
そう言いながら笑った顔を見て、なんだか自分のことみたいにうれしくなった。
隣からはもう、あの緊張したような小声は聞こえてこない。
さいごに
「妻は管理できない」という言葉の裏に、長い年月の苦しさが隠れていました。
奥さんの小さなメモとレシートが、専門家の前でちゃんと力を持てたのは、誰かがそれを「おかしい」と感じて動いたからかもしれません。
身近に「なんか変だな」と思う場面があったら、まず相談窓口に電話してみることが、その人の一歩になることもあります。
あなたのそばに、そんな場面はありませんか?
※本記事は、実際の体験談をもとに作成しています。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
※本コンテンツ内の画像は、生成AIを利用して作成しています。


コメント