三年付き合った彼と、はじめての海外。週末の午後、彼の部屋でノートPCを開き、私が代表で予約を進めた。名前、パスポート番号、連絡先……手が止まったのは住所欄だった。
数字の並びも、私が覚えている彼の郵便番号と違う。あれ? この数字じゃなかった?
「郵便番号、前と違わない?」
「郵便番号、これで合ってる?」と聞くと、彼はソファにもたれて肩をすくめた。
「合ってるよ。細かいな。会社の寮のやつにしてるだけ」
寮? 三年の間、寮の話なんて一度も聞いたことがない。私が「書類はここに届くけど、いいの?」と重ねると、
「研修でしばらく寮暮らし。郵送物は職場に回るから平気」
と言い切った。早口で、質問を切る調子。
春に大型の棚を注文したとき、配送先の画面を彼のスマホで見せてもらい、私が店員さんに伝えた。住所は同じ町内で、丁目だけ今と違っていた。あのときは「同じ町内で別の棟に移るかも」と彼が言い、引っ越し準備の一環かと受け取ってしまった。私はそのとき控えた伝票の写真を、まだスマホに残している。
「研修、長くない?」の積み重ね
ここ数カ月、土日のドタキャンが続き、理由はいつも「研修」「当番」。彼の部屋も少し前から変わった。洗剤の銘柄が総とっかえされ、玄関にかわいらしいスリッパが一足。妹が来たと言われたが、妹は県外在住で、私は一度会っただけ。なのに小さめのスリッパはずっと置きっぱなしで、甘い柔軟剤の香りも変わらない。胸の中で、違和感だけが増えていった。
私は息を吸って、いったん予約を最後まで進めた。支払いは“仮予約”で止める。決めつけで荒らしたくない。まず、確かめる。
「書類の控え、明日ポストに入れておくね」と言うと、彼は「ポストは管理室経由だからやめて」と食い気味に遮った。寮なら玄関前に置くくらい誰も困らないし、管理室での預かりも普通にあるはずだ。そこで、動く理由がはっきりした。
「その住所、今から行く」
夕方、「さっきの住所に差し入れと控え持って行くね。玄関前に置くだけ」とメッセージを送った。返信はすぐだ。
「今日は無理。会議入った」
土曜の夜に会議? 私は「旅行の控えに本人の署名が要るから、渡すだけにするよ」と送り、電車に乗った。駅から歩いて五分、新築っぽいマンションに着く。エントランスのオートロック前から彼に着信を入れるが、出ない。ちょうど中から管理人が出てきたので事情を話して中に入り、部屋番号の前へ。
インターホンに出たのは女性だった。「どちら様ですか?」
「彼の友人です。控えをお渡しに……」と言うと、チェーンをかけたまま少しだけ扉が開いた。私より少し年下に見える女性が立ち、廊下の奥からスウェット姿の彼が顔を出す。
「……なんで来たの」
その言い方で、だいたい分かった。私は鞄を持ち替え、「旅行の書類があるから」とだけ言って、上がらずに玄関前で止まった。
玄関で出た「二人名義です」
彼が私のほうを向き、「誤解だ、会社の研修のことで……」と口を開く。私はスマホを出し、予約サイトの住所欄を見せた。そこに入力した郵便番号と、春に撮ってあった家電の伝票の写真。その二つが、今日の部屋番号と一致している。
「半年前から、ここで暮らしてるんだよね」
彼は視線を泳がせ、「違う、最近手伝いに来てもらってるだけ」と女性を指した。女性は短く首を振り、私に向き直る。
「あなたは“ただの友だち”って聞いてました。ここ、二人で借りてるんです。契約も二人の名前で」
声は低いがはっきりしていた。彼は「いや、その……」と私に責め口調で声を上げる。「勝手に来て騒いで、迷惑だろ」——実際に響いているのは彼の声だ。
私は合鍵を取り出し、彼に差し出した。「旅行はキャンセルする。支払い前の仮予約だから、私のカードに請求はかからない。今日で終わりにするね」
そのとき女性が言った。「私も話す。週末は“研修”って言って出ていくし、社内では彼女いないって言ってたって同僚から聞いた」スマホのメッセージ画面を私に向ける。既読だらけの「今日は実家」「今夜は当番」。私の中で、点が一本の線になった。
旅行は取消、合鍵は返す
私はその場で予約サイトにログインし、キャンセルのボタンを押した。確認画面の“取り消し完了”のマークを、二人の前で見せる。
女性は奥の部屋から段ボールを持ってきて、彼に差し出した。「ここ、あなたの荷物。今夜中に出して。旅行って、私は聞いてないから」
彼が「お前が勝手に……」と言いかけると、女性が目を逸らさずに一言。「出して」
私は、「お邪魔しました」とだけ告げて玄関を出た。背後で彼の声が大きくなったが、振り返らなかった。
その後
その夜、彼の荷物は段ボールにまとめられ廊下に出されたと、女性からメッセージが来た。私の私物は管理人室に預ける段取りを女性が提案し、やり取りは彼と女性、私の三人のグループチャットに切り替えた。日時と受け渡し方法だけ短く決め、月曜の夕方に受け取った。彼と直接会う理由は、もうない。
旅行の予約は完全に取り消され、手数料はかからなかった。週末、久しぶりに朝から洗濯をして、母に電話をした。次の旅は、気の置けない友人と行こう。あの住所の違和感が生まれた瞬間から、私の中で結末は決まっていたのだと思う。
さいごに
小さな違和感は、たいてい理由があります。詮索ではなく、約束や暮らしに関わることは落ち着いて確かめていいんです。読んでいて胸がざわついた方もいるはず。あなたなら、住所の違和感に気づいた時、どう動きますか?
※本記事は、実際の体験談をもとに作成しています。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
※本コンテンツ内の画像は、生成AIを利用して作成しています。


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