夕方のバス停。仕事帰りの人の列に並びながら、私はコートのボタンを留めた。社外では社員証を見えないようにする決まりがあり、いつもストラップは内側にしまっている。癖で、手のひらで押さえるのもいつものことだ。
「久しぶり!」
振り向くと、10年前に同じ職場にいた元同期。笑顔のまま、私の服やバッグを上から下まで見てくる。その目で、これからの話の方向性がだいたい分かった。
「正社員よ」から始まった自慢
「先週から、大手メーカーの正社員になったの。やっと肩書きがね。福利厚生が全然違うし」
息継ぎも惜しまない勢いで続く。
「で、あなたは? その感じだと、まだ契約とか? あの頃、電話の取り次ぎよく間違えてたよね」
私は「そうなんだ。おめでとう」とだけ返す。社外で肩書きを並べるつもりはないし、バス停で立ち話を長引かせたくもない。
彼女は満足そうにうなずき、バッグのブランドや通勤定期の区間まで話題にする。
バスが来た。二人並んで前扉から乗り、運賃箱の後ろに立つ。私はコートの内側で社員証のストラップを指で押さえた。
「で、あなたは?」の連呼
車内が動き出しても、彼女の調子は変わらない。
「正社員はね、責任が違うの。私、今度は企画にも関わる予定でさ。あなたは今、どこ? 部署名くらい言えるでしょ」
「今は事務寄りかな」
彼女は目尻を上げる。「やっぱりね。向いてなかったもん、前の仕事。私、採用の人にも期待されてるし。あ、名刺いる?」
差し出された名刺の会社名は、私が今いる大手メーカーと同じだった。私は受け取り、カバンのカードポケットにしまう。
「配属は?」
「首都圏営業二課。まずはサポートから」
心の中で点が線になった。彼女は、私が見ている部署に来る。けれど、ここは社外。名乗るのは会社での正式な場にしようと決めて、私は吊り革を握り直した。
「落としたよ」差し出した瞬間
次の停留所で、降車ボタンが光る。彼女が前へ進みながらスマホを取り出した拍子に、手から滑って足元へ落とした。
「落としたよ」
私はかがんで拾い、前に差し出す。そのとき車内がぐっとブレーキを踏んだように揺れ、バランスを取ろうと片手を前の手すりに伸ばした。押さえていたコートの前が開き、ストラップがすべって胸元の社員証が外に出る。わざとではない。けれど、見えてしまった以上、ここで誤解を残すのも違う。
彼女の視線が私の手元から胸元へ移る。私はスマホを渡しながら短く言った。
「入社おめでとう。同じ会社だね。首都圏営業二課の課長、私です」
彼女の足がステップの前で止まり、私の顔と社員証を何度か見比べた。
「あの…すみません」小さく変わる声
「…さっき、失礼なこと言ってました。すみません」
声が小さくなり、スマホをぎゅっと握り直す。
「詳しい話は職場で。まずは配属先のリーダーに付いて、分からないことはそこで聞いてね。人を下げる言い方だけは、外でも中でもやめておこう」
それだけ伝えると、彼女はうなずいた。「はい。気をつけます」
車内アナウンスが次の停留所を告げる。私はブザーの前まで進み、肩のカバンを持ち替えた。
その後、社内では必要な距離で
翌週、彼女から社内メールが届いた。「先日はすみませんでした。配属先で頑張ります」と短い文だ。
私は「ようこそ」とだけ返し、彼女の直属のリーダーに共有した。仕事のやり取りは必要な分だけ。雑談はしない。
あの日の帰り、私はいつも通りの停留所で降りて、スーパーで牛乳を買って帰った。肩書きはコートの内側にしまっておく。でも、誤解や見下しが続く場面では、事実を一言だけ伝えることもある。
さいごに
肩書きで態度を変える人に出会うと、心がざらつきますよね。今回は偶然が重なって、場を整える一言につながりました。
相手を言い負かすより、立場とルールを示す方が後味は穏やかです。もし似た場面に出会ったら、あなたはどこまで言いますか?
※本記事は、実際の体験談をもとに作成しています。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
※本コンテンツ内の画像は、生成AIを利用して作成しています。


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