混雑した帰りの電車で、私はずっとスマホの画面を見ていた。正確には、見ているふりをしていた。
電車を降りてからも、あの時の出来事が頭から離れなかった。
杖をついた女性が乗ってきた、あの瞬間
夕方のラッシュ時、ドアが開くたびに人がなだれ込む車内だった。
私が乗った次の駅で、杖をつきながらゆっくりと乗り込んできた女性がいた。年齢は70代くらいだろうか。つり革に手を伸ばしながら、少し不安定そうに立っている。
——あ、席を譲らなきゃ。
そう思った。思ったのに、体が動かなかった。
「誰も立たないし、まあいいか」という甘え
周りを見ると、隣の人もスマホをのぞいたまま。向かいの人も目を閉じている。誰も動いていない。
その瞬間、ふっと気持ちが楽になった自分がいた。
——誰も動かないんだから、私だけ立つ必要もないか。
そうやって、自分の「動かない理由」を周囲に押しつけた。スマホに目を落として、意識的にその女性を視界の外に追いやった。
恥ずかしい話だけれど、これが正直なところだった。
降りてから、「でも……」と繰り返した
数駅後、私は電車を降りた。改札を出て、夜風に当たりながら歩いていると——なんとなく、ずっと胸のあたりがモヤモヤしていた。
あの女性、ちゃんと座れたかな。
そんなことを考えてしまう。
「でも周りも誰も立たなかったし」と頭の中で言い訳してみる。でも今度はその言葉が、すごく薄っぺらく感じた。
「みんなと同じ」って、言い訳だったんだ……
帰り道を歩きながら、ふと気づいた。
——「誰も動かなかったから」って、結局は自分が動きたくないための理由探しだったんじゃないか。
あの瞬間、私は周りを「免罪符」にした。みんなが動かないなら自分も動かなくていい、という論理で、自分の選択を正当化した。
でも、誰かが最初に立てばよかっただけの話で、その「誰か」に、私はなれた。なれたのに、ならなかった。
「みんな同じだった」という言葉は、共感でも連帯でもなく、ただの言い訳だった——そのことに、電車を降りてからようやく気づいた。
さいごに
「誰もやっていないから」という空気に、つい流されてしまうこと、きっと誰にでもありますよね。帰り道にじわじわ残るあのモヤモヤは、自分でもわかってたよ、という心の声なのかも。そんな経験、あなたにもありませんか?
※本記事は、実際の体験談をもとに作成しています。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
※本コンテンツ内の画像は、生成AIを利用して作成しています。



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