新居への引っ越しは、人生の中でも特別に心が弾む瞬間だと思っていた。でも私の場合、その高揚感は翌朝には消えていた。
玄関ドアの外に、一枚の貼り紙が掲示されていたから。
「廊下に物を置く住人は即退去させます」
引っ越し初日、隣の部屋の方へ挨拶に行った。
40代後半くらいの女性で、名前は田辺さん(仮名)。
にこりともせず「ああ、新しい方ね」とだけ言って、すぐドアを閉めた。
——感じが良くはないけど、まあこんな人もいるか。
そう思って気にしないようにしていたら、翌朝あの貼り紙だった。
「共用廊下への私物放置は禁止。自転車・傘立て・植木鉢、すべて撤去のこと。違反者は管理会社へ通報します」
差出人の名前はなかったが、紙の質感も文体も、なんとなく昨日の田辺さんを連想させた。
私はその時点では玄関前に何も置いていなかったので、直接の実害はない。でも……なんだか空気が重かった。
「共用灯は節電のため消しておくように」
一週間後、また貼り紙が増えた。
今度は階段踊り場の壁に。「夜間・不在時は共用照明のスイッチを各自でオフに。電気代の無駄です」という内容だった。
——え、共用灯って管理費で賄われてるやつじゃないの? 勝手に消したら他の住人が困るよね?
おかしいと思いつつ、相談できる人がいなかった。
引っ越してきたばかりで顔見知りもいないし、同居している夫も「関わるな」と言うだけ。私は一人でモヤモヤを飲み込んでいた。
その後も貼り紙は続いた。
「エレベーター内での通話禁止(厳守)」
「集合ポスト付近での立ち話は迷惑行為」
「ゴミ出しは7時以降厳禁」
……どれも管理規約には載っていないルールばかりだった。
ある朝、廊下ですれ違った田辺さんに思い切って声をかけてみた。
「あの貼り紙って、田辺さんが出されているんですか?」
「そうよ。このマンションのルールは私が長年かけて決めてきたの。新参者は従ってもらわないと困ります」
——長年かけて”決めてきた”? 管理組合でもなく、管理会社でもなく、一個人が?
言葉を失った私の横を、田辺さんはさっさと歩いていった。
管理組合の会議で手を挙げた、あの瞬間
転機は、年に一度の管理組合の定期総会の案内が届いたことだった。
夫は「行っても意味ないだろ」と言ったが、私は出席することにした。何か言わなければ、この状況は変わらないと思ったから。
会議室に集まったのは15人ほど。
議題がひと通り終わったころ、「その他ご意見は?」という時間が設けられた。
手が震えていた。でも私は手を挙げた。
「廊下や共用部に、管理規約にない独自のルールを記した貼り紙が繰り返し掲示されています。差出人は不明ですが、内容に困惑している住人が多いのではないかと思い……」
言い終わらないうちに、室内がざわついた。
「あ、私もです!」「ずっと気になってました」「一度、照明消しておいたら別の住人に怒られました」
次々と手が挙がった。
私だけじゃなかった——。胸の奥で、何かがほどけていく感覚があった。
田辺さんも出席していた。
最初は腕を組んで黙っていたが、「規約外の掲示物は撤去対象とし、継続する場合は書面で注意します」という管理組合の決議が出た瞬間、かすかに顔色が変わった。
公式文書が届いた日、貼り紙は消えた
会議から約10日後、管理会社から各住戸に通知文書が届いた。
「共用部への無断掲示物に関する注意事項について」という、いかにも事務的なタイトル。だが内容は明確だった。
管理規約の範囲外の掲示物は認められない。発見次第撤去する。繰り返す場合は規約に基づき対処する——と。
その翌日から、廊下の貼り紙がすべて消えた。
田辺さんとは、その後も廊下ですれ違うことがある。目は合わない。言葉も交わさない。でも、それでいいと思っている。もう貼り紙はない。それだけで、毎朝の気持ちがまるで違う。
「言ってくれてありがとう」——声は届いていた
今は、同じ階の別の住人と会釈を交わせるくらいの関係になった。総会で声を上げたことで、何人かから「あのとき言ってくれてありがとう」と声をかけてもらえた。
一人で抱えていたモヤモヤが、実は一人じゃなかった。それを知っただけで、このマンションへの印象がまるっきり変わった。
廊下は今日も静かで、照明はちゃんとついている。
さいごに
「自分だけが気にしすぎているのかも」と思って黙り込むこと、ありますよね。
でも、理不尽なことを「おかしい」と感じる感覚は、たいてい正しい。公式の窓口に相談するのは、戦いじゃなくて”確認”なのかもしれませんね。
一人の声が、同じ思いを持つ人たちをつなぐきっかけになることも、きっとあるから。
※本記事は、実際の体験談をもとに作成しています。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
※本コンテンツ内の画像は、生成AIを利用して作成しています。


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