定食屋のランチタイムは、いつも少しザワザワしていて、それが好きだった。でもその日は、違う種類のざわめきが漂っていた。
「バイトのくせに言い訳するな」
平日の昼どき、駅から少し外れた小さな定食屋に入った。カウンター7席、テーブルが4つほどの、いわゆる”街の食堂”だ。
席についてすぐ、隣のテーブルから低い怒鳴り声が聞こえてきた。
「だからさぁ、何度言えばわかるの。俺の席ってのは決まってるんだよ。常連をなんだと思ってんの」
声の主は50代とおぼしき男性。スーツにネクタイ、腕時計がやけに光っている。テーブルの向こうでは、20代前半に見えるアルバイトらしき女性が「申し訳ございません」と繰り返しながら、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
どうやら彼の”指定席”に先客が通されてしまったらしい。満席に近い状況では仕方がないことだ。だが男性にとっては「仕方ない」ではすまないらしかった。
「常連を蔑ろにする店は潰れるんだよ。わかってる? バイトのくせに言い訳するな」
店内の空気が固まった。他の客たちは目を伏せるか、スマホを眺めるふりをしていた。
声はさらに大きく、女の子の肩は小さく
私は注文した日替わり定食を、ゆっくりと食べ始めた。
男性の声はおさまらなかった。むしろヒートアップしていく。
「この店のバイトは誰も使えない。俺が何年通ってると思ってんだ。店主を出せよ、店主」
店主の方が出てきて頭を下げると、今度は「謝れば済むと思ってる?」と畳みかける。あのアルバイトの女性は端のほうで、腕を体に巻きつけるようにして立っていた。肩が小刻みに震えていた。
——誰かが止めなければ、あの子はこのまま壊れてしまう。
そう思いながらも、私はあえて動かなかった。まだ、タイミングではない。
お茶をひとくち飲んで、ゆっくりと定食を食べ続けた。
食事を終えて、席を立つ
味噌汁まで飲み干して、私は財布を取り出した。
男性はまだしゃべっていた。「今後どう対応するか文書で出せ」「悪い評判を流されたくなければ誠意を示せ」——もはや言いがかりに近い要求が続いていた。
レジで会計を済ませ、「ごちそうさまでした」と告げると、店主の方が疲れ切った顔で「ありがとうございます」と返してくれた。
私はその場で、名刺入れをそっと開いた。
一枚取り出して、男性のテーブルへ向かう。さっきまで騒いでいた男性が「なんだ」というふうにこちらを向いた。
名刺をテーブルに置いた。
「先ほどから拝見していました。私、飲食業界の労働環境改善を専門に調査・支援している者です。今日のやりとり、記録させていただきました」
名刺を見た瞬間、男性の顔が変わった
名刺には、飲食業の労働環境調査と法的サポートを担う団体の役職名が刷られていた。
男性はそれを手に取り、一瞬で顔色が変わった。
さっきまでの勢いが、すうっと引いていくのが見えた。
「……あの、私はただ」
「お気持ちはわかります」と私は静かに言った。「ただ、お名前と生年月日等を確認させていただいてもよいですか。こうした事案は、記録として残す場合がありますので」
男性は何も言えなかった。名刺を持ったまま、口を小さく開けた。あれだけ大きかった声が、どこかへ消えていた。
店主の方が「あの……」と戸惑いながら私を見ている。私は軽く会釈をして、「お店の皆さんはきちんと対応されていましたよ」とだけ伝えた。
男性はそのまま、ほとんど何も言わずに席を立ち、会計をして出ていった。
アルバイトの女性が、小さな声で「ありがとうございます」とつぶやいた。
その後、あの定食屋に今も通っている
あれから数か月が経つ。
私はいまもあの定食屋のランチに通っている。あのアルバイトの女性は今も働いていて、最近は少し表情が明るくなった気がする。
「いつもありがとうございます」と言ってくれるその顔が、あの日の震えた肩と重なって、なんとも言えない気持ちになる。
あの男性がその後どうなったかは知らない。ただ、あの店には来ていないようだ。
さいごに
「常連だから」という一言が、懸命に働く人をどれだけ傷つけるか——この話を読んで、そう感じた人も多いのではないでしょうか。理不尽な場面を前に、動くことも動かないことも、どちらも勇気がいる。あなたなら、あの場でどうしていたと思いますか?
※本記事は、実際の体験談をもとに作成しています。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
※本コンテンツ内の画像は、生成AIを利用して作成しています。


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