母がデイサービスから帰ってくるとき、いつもより静かだと気になっていた。でも「慣れない場所で疲れているだけ」と、自分に言い聞かせていた。
あの日までは。
「迎えに行くと、母が隅で縮こまっていた」
母・房江(78歳)が近所のデイサービスを利用し始めて、半年が経ったころのことだ。
仕事を早退して迎えに行くと、母はロビーの隅の椅子にひとり座り、両手を膝の上でぎゅっと握りしめていた。
「お母さん、来たよ」と声をかけると、びくっと肩を震わせてから私の顔を見て、ほっとしたように「帰ろ」とだけ言った。
——なんだろう、この顔は。
認知症が進んでいても、母の表情はいつも穏やかだった。それが、まるで怒られた子どものように見えた。
「あの職員、大声で怒鳴ることがあるんです」
翌日、駐車場で偶然出会った別の利用者のご家族・田中さん(仮名)から、私は小声で耳打ちされた。
「うちの父も最近元気がなくて……。春から入った男性職員さん、ちょっと声が荒いときがあるんですよね」
胸の中で何かがストンと落ちた。
帰り道、母に「デイサービスで怖いことあった?」と聞くと、少し間があってから「おじさんが怖い」とぽつりと言った。
認知症だから記憶は断片的だ。でも、感情の記憶は残る——そう聞いたことがあった。
母が感じた「怖い」という気持ちは、本物だ。
——もうここには行かせられない。
その夜すぐに担当のケアマネージャー・岸さんに電話し、状況を伝えた。「次回の通所は、話し合いの結果が出るまで一旦お休みさせてください」とお願いした。
「過保護じゃないですか?大きな声でないと伝わらないんですよ」
翌日、施設の相談員を交えた聞き取りの場が設けられた。
そこに同席した男性職員・村瀬さん(仮名)は、悪びれた様子もなくこう言った。
「認知症の方って、普通の声だと届かないじゃないですか。大きな声で、はっきり言わないと動いてもらえないんですよ。ご家族が気にしすぎなだけだと思いますよ」
……この人は、本気でそう思っているんだ。
感情的に言い返しても何も変わらない。私が欲しいのは謝罪じゃなく、母が安心して通える場所だ。
「一度、施設長さんも交えてきちんと話し合いの場を設けていただけますか。感情的に責めたいわけじゃなく、母が安心して通える環境を一緒に考えたいんです」
そう伝えて、その日はいったん引き下がった。
「おっしゃる通りです」——施設長のひと言で空気が変わった
一週間後、施設長・大野さん、ケアマネの岸さん、そして私の三者面談が実現した。
私は事前に、気になっていたことをA4サイズの紙一枚にまとめてきた。母の表情の変化、田中さんから聞いたこと、母が「おじさんが怖い」と言った日のこと。感情論にならないよう、できるだけ事実だけを並べた。
「責任を問いたいというより、認知症の方へのコミュニケーションとして、大きな声や威圧的な言い方が本当に適切なのかを、専門家の視点から教えていただきたいんです」
施設長の大野さんは、私の話をメモを取りながら最後まで聞いてくれた。
「おっしゃる通りです。認知症ケアにおいては、声のトーンや距離感がとても重要で、大声は不安や混乱を招くことが多い。今回の件は私どもの指導が不十分でした」
村瀬さんも同席していたが、施設長のひと言で、さっきとは明らかに表情が変わった。
話し合いの末、村瀬さんは当面、母の担当から外れて別のフロアに配置換えとなること、全職員向けに認知症ケアの研修を改めて実施することが決まった。
母の笑顔が戻ってきた日
配置が変わり、通所を再開して二週間ほど経ったころ、迎えに行くと母がスタッフの女性と何か話しながら笑っていた。
あの縮こまった後ろ姿が、嘘みたいだった。
「今日、楽しかった?」と聞くと、「うん、楽しかった」とはっきり答えてくれた。
それだけで、胸がいっぱいになった。
感情的に怒鳴り込んでいたら、きっとこうはならなかった。施設との関係がこじれて、母が居場所を失っていたかもしれない。
「安心して通える環境を一緒に作りたい」——その一言を軸にして、本当によかったと思う。
さいごに
「何かおかしい」という直感は、やっぱり大切にしていいんだと思います。
感情的に詰め寄るより、事実をそっと並べて「一緒に考えたい」と伝える——そんな静かな一歩が、大切な人の笑顔を守ることもある。
介護の場での違和感、あなたも感じたことはありませんか?
※本記事は、実際の体験談をもとに作成しています。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
※本コンテンツ内の画像は、生成AIを利用して作成しています。


コメント