引っ越してきた翌朝から、隣の棟の自治会長・田島さん(仮名・60代)は玄関先で待ち構えていた。「この団地のルールはね、私が管理しているから」——笑顔の奥に、ほんの少しの険しさが見えた気がした。
「市のルールより私のルールが優先です」
入居して一週間も経たないうちに、田島会長が差出人の「ゴミ出しの手順書」が我が家のポストに投函された。
中身を読んで目を丸くした。
市の収集カレンダーとは曜日がずれていたり、「この棟の住民は指定袋に加えて会長承認ラベルを貼ること」という独自ルールが堂々と書かれていたりする。
「あの……市のホームページには別の曜日が載っているんですが」と確認すると、田島会長はフンと鼻を鳴らした。
「市のルールより私のルールが優先です。ここで何十年も管理してきたんだから、素人さんは黙って従ってください」
——素人? 私は市役所の環境政策課に十年以上いたんですけど。
転職して民間企業に移った今、わざわざ過去の話を持ち出す気にもなれなかった。最初から対立したくもなかったし、笑顔でやり過ごすのが一番だと思っていた。
「新参者が文句を言うな」がエスカレートして
しかし、田島会長の「指導」は月を追うごとに範囲を広げていった。
ゴミのルールに始まり、「駐輪場の自転車は私が並び順を決める」「回覧板は必ず翌朝9時までに回すこと(遅れたら会長へ報告)」「来客の車は会長に事前申告」……。
「そういったルールは自治会規約に記載がありますか?」と別の住民が尋ねると、田島会長は「規約より私の長年の経験のほうが正確です」と言い切った。
住民の中には従わざるを得ない高齢の方も多く、誰もなかなか声を上げられない雰囲気だった。
私もそのひとりで、ずっと愛想笑いをしながら——でも心の中では、これ、絶対おかしい——とくすぶり続けていた。
転機が来たのは、年に一度の「自治会全体集会」の案内が届いた日だった。
今年は市の担当者も出席し、ゴミ・防災・騒音に関する最新のガイドラインを説明するとある。私はそのとき、市の担当者が誰かなんてまったく知らなかった。
集会に現れた顔に、思わず声が出た
集会当日。公民館の前方に市の担当者席が設けられていた。
スーツ姿で資料を広げていた男性が顔を上げた瞬間、私は思わず「あ」と声に出してしまった。
——柴田くんだ。
かつて同じ環境政策課で机を並べ、ゴミ収集の適正化プロジェクトを一緒に回した元同僚。今は市の廃棄物対策課の課長を務めているらしい。
柴田くんも私に気づき、小さく会釈をしてくれた。
田島会長は私たちのことには気づいていないようで、壇上で「今日は私が司会を務めます」と仕切り始めていた。
「それ、市の規定と全く異なりますが」
柴田くんの説明が始まった。ゴミの分別・収集曜日・指定袋のルールを、市の最新ガイドラインに沿って丁寧に解説していく。
田島会長が手を挙げた。
「うちの自治会では独自の承認ラベルを使っています。それで問題ありませんよね?」
柴田くんは静かに首を振った。
「市の指定袋以外に独自ラベルを義務づけることは、市の規定にもとづくと住民のみなさんへの負担になります。そのようなルールを確認した場合は、自治会に訂正をお願いすることになっています」
会場がざわめいた。
田島会長の顔がみるみる強張る。「し、しかし長年これでやってきた実績が……」
「実績より市の条例が上位になります」
柴田くんは穏やかだったが、一切ぶれなかった。
集会の後、田島会長は柴田くんに「以前から規定を知らなかったわけじゃ……」と弁解を試みていたが、柴田くんは「書面で是正のご案内をお送りします」と静かに告げて、それで終わりだった。
退出しようとした田島会長が、ふと私の隣を通り過ぎるとき——「あの市の方と、お知り合いで?」と小声で聞いてきた。見ていないようで、実は気付いていたようだ。
「ええ、昔の同僚です。一緒にゴミ収集の適正化を担当していたので」
田島会長は何も言わなかった。ただ、先ほどまでの「俺が仕切る」という空気が、すっと消えていた。
「承認ラベル」は静かに消えた
集会の翌週、田島会長から住民へ新しいお知らせが投函されてきた。
「従来のルールを市のガイドラインに合わせて変更します」
承認ラベルの義務づけは廃止。駐輪場の並び順指定も「あくまでお願いベース」に変更。来客の事前申告も「不要」と明記されていた。
田島会長が直接謝罪の言葉をかけてきたわけではない。でも、翌月の回覧板から「遅れたら会長へ報告」の文字が消えていたのを見て、私はホッとした。
自治会の集まりで顔を合わせると、田島会長は以前より少し小さな声で話すようになった。
それで十分だと思っている。
さいごに
「長年やってきた」という自信が、いつの間にか独自ルールになってしまう。そんなことは、どこのコミュニティでも起きうることかもしれません。おかしいと感じながら言い出せずにいた住民にとって、正しい情報がきちんと届いたこの集会は、小さくても大事な一歩だったのではないでしょうか。あなたの身近にも、「なんか変だけど言えない」ルール、ありませんか?
※本記事は、実際の体験談をもとに作成しています。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
※本コンテンツ内の画像は、生成AIを利用して作成しています。


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