入社して半年が経つころ、私はすでに「あの人には逆らわないほうがいい」という暗黙のルールを学んでいた。
それを教えてくれたのは、先輩でも上司でもなく、職場の空気そのものだった。
「右の棚2段は私が使用中」冷蔵庫に貼られた付箋
堀田さんは勤続15年の古参社員で、40代半ば。
職場では誰もが彼の顔色をうかがっていた。
ある朝、共用の冷蔵庫を開けようとした私は、ドアに貼られた付箋に気づいた。
「右の棚2段は私が使用中。他の人は入れないこと。——堀田」
……え、共用の冷蔵庫だよね?
思わず総務担当の田中さんに確認すると、「まあ、堀田さんはずっとそうなので……」と苦笑いで流された。
棚の中を覗くと、市販のドリンクが10本以上と、タッパーに入った大量の作り置きがぎっしり。
残りのスペースに、他の社員たちは申し訳なさそうに弁当を1段に押し込んでいた。
「空気読めないの?」注意した人間が逆に詰められた
実は入社直後、一度だけ堀田さんに直接お願いした先輩がいた。
「冷蔵庫、みんなで使えるようにしてもらえますか」と。
そのとき堀田さんが返した言葉が、のちに私の耳にも届いた。
「なんで俺が合わせないといけないの? 長く働いてる人間が使いやすい環境にするのは当然でしょ。空気読めないの?」
先輩はそれ以上何も言えなかったらしい。
冷蔵庫の問題だけではない。
会議室の予約も、堀田さんが「午後は俺が使う」と口頭で宣言するだけで実質封鎖。
備品の中で最も使いやすいハサミやホチキス。それらはいつも、彼のデスクの引き出しに入りっぱなしだった。
誰も何も言えない。言えば「空気が読めない人」のレッテルを貼られる——そういう職場だった。
私は半年間、ただ黙って見ていた。
「共有の冷蔵庫は俺専用だから♪」役員の前でまた言った
その日、本社から役員が職場視察に来ることは、一週間前から全員に通知されていた。
管理職はピリついていたし、フロアもいつもより少し整頓されていた。
でも、堀田さんは変わらなかった。
昼休み、私が休憩室で弁当を食べていると、堀田さんが冷蔵庫を開け、自分のドリンクを取り出しながら大きな声で言った。
「共有の冷蔵庫は俺専用だから♪ みんな分かってるよね〜」
笑いながら言う。冗談っぽい口調、なのに堀田さんは本気で言っている。
いつもの光景だった。
——ただ、その日だけは違った。
休憩室の入口に、スーツ姿の初老の男性が立っていた。
視察に来た本社の執行役員・大和田さんだ。
部長が青くなりながら「大和田執行役員、こちらが休憩室です……」と案内していたところだった。
大和田さんは静かに室内を見回し、冷蔵庫の前に立つ堀田さんと、ドアの付箋に、ゆっくりと目を止めた。
「……あの付箋は?」
静かな、ただ静かな問いかけだった。
「業務改善の一環として」役員の一言が全てを動かした
部長は言葉を詰まらせた。
その言葉を聞いた堀田さんは、さすがに顔色が変わっていた。
大和田さんは特定の誰かを責めるわけでもなく、ただ淡々と言った。
「共有スペースの私物化は、職場環境のガイドラインに反しますね。業務改善の一環として、今日中に対応をお願いできますか」
それだけだった。
怒鳴らない。詰めない。でも、誰の目にも「見られていた」ことは明らかだった。
その日の夕方、堀田さんは無言で冷蔵庫の付箋を剥がした。
棚の中身も、自分の分を最小限にしてひとつのトレーにまとめ、冷蔵庫のほとんどのスペースを空けた。
会議室の「口頭予約」も、翌日からシステム予約に統一されることが部長から通達された。
堀田さんはその後、誰かに「空気読めない」と言うことがなくなった。
静かになった職場で、弁当を入れる場所ができた
冷蔵庫に弁当を入れる場所ができた。
会議室を使いたいときに予約できるようになった。
たったそれだけのことなのに、職場の空気がほんの少し、軽くなった気がした。
先輩が一言注意しただけで詰められ、半年間誰も動けなかった問題が、役員のひとことで静かに、あっさりと片がついた。
——正直、少し悔しかった。
けれど、声が出せなかったお互いを責める気には、どうしてもなれなかった。
あの空気の重さは、実際にいた人間にしか分からないから。
さいごに
「おかしい」と思いながら誰も言い出せない——そんな空気、職場に一つや二つありませんか?
声を上げた人が損をする場所では、理不尽がじわじわ育ってしまう。堀田さんの話、他人事とは思えない人もいるかもしれませんね。
※本記事は、実際の体験談をもとに作成しています。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
※本コンテンツ内の画像は、生成AIを利用して作成しています。


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