義実家の帰省が近づくと、なぜか胃のあたりがじわりと重くなる。
悪口を言われているわけじゃない。無視されているわけでも、たぶん、ない。
それなのに——。
「ねぇお母さん、あの話なんだけど♪」——私だけ置いてけぼり
リビングで義母がお茶を入れながら話しかける先は、いつも義姉だ。
「ねえ、この前のあれどうだった?」
「あー、それがね……」
私はその横で、湯のみを両手で包みながらただ聞いている。
話に入ろうとすると、会話はもう次のトピックへ移っている。
割り込む隙がない、というより——最初から私が入る前提じゃない流れ、なんだよな。
義姉は意地悪な人ではないと思う。義母だってわざと排除しているわけじゃないと思う。
それでも、テーブルを囲む3人のうち、明らかに「輪の外側」に置かれているのは私だ。
「悪気ないと思うよ」——夫のその一言がいちばんキツい
帰りの車の中で夫に話してみたことがある。
「なんか、いつもお母さんと義姉さんだけで話が進んで、私だけ取り残される感じがするんだよね」
夫の答えは、ほぼ毎回同じ。
「え、そうかな。気にしすぎじゃない? 悪気ないと思うよ」
……うん、悪気がないのはわかってる。
でも、「悪意がない=傷ついていない」にはならないよね。
なのに、なぜかその方程式で話が毎回終わる。
それが、もしかしたら一番しんどいのかもしれない。
玄関を出た瞬間、なぜこんなに息ができるの?
帰省の帰り際、義実家のドアが閉まった瞬間——
ふっ、と全身の力が抜けるのを感じる。
あ、ずっと緊張してたんだな、と毎回気づく。
怒鳴られたわけでも、嫌なことを言われたわけでもない。
それなのにこの解放感は何?
自分でもうまく言えなかったんだけど、最近ちょっとわかってきた。
「参加を許されていない場所に、何時間もいる」ことの疲労感、なんだと思う。
話題の外側に置かれ続けることで、存在を薄められていく感覚。
積極的に傷つけられることとは違うけれど、地味にじわじわ削られる——それが正体だ。
SNSで似たような投稿を見かけたとき、思わずスマホを握りしめた。
「義母と義姉の間に入れない」「悪意ないのはわかるけどしんどい」
——わかる、わかりすぎる。
「気にしすぎ」じゃなくて、ちゃんとした感覚なんだ。そう思ったら、少しだけ自分を責めるのをやめられた気がした。
さいごに
悪意がないからこそ、「傷ついた」と言いにくいし、「気にしすぎ」で片付けられやすい。
でもそのモヤモヤに、ちゃんと名前をつけてあげてもいいんじゃないかなと思う。
同じ感覚を持っている人が、どこかにたくさんいる。
それだけで、ちょっと肩が軽くなりませんか。
※本記事は、実際の体験談をもとに作成しています。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
※本コンテンツ内の画像は、生成AIを利用して作成しています。

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