団地の中庭にある小さな公園は、平日の午後になると決まって同じ顔ぶれが集まる。私はそこで四歳の娘を遊ばせながら、隣の305号室に越してきた女性と顔を合わせることが多かった。
五十代くらいの女性で、半年ほど前に一人で越してきたと聞いていた。子どもはいないらしく、娘が砂場で遊んでいると「かわいいわねえ」とよく声をかけてくれた。
最初はただの愛想のいいご近所さんだと思っていた。
「おばちゃんちにおいで♡」のはずが
その女性は会うたびに、娘の手を取ってこう言うようになった。
「ねえ、おばちゃんちにおいで♡ お菓子あるよ」
娘は最初こそ戸惑うくらいだったが、何度も誘われるうちに、手を引かれるたびに首を横に振るようになった。
「やだ、ママがいい」
そう言って私の足にしがみつく娘を見ても、女性は笑いながら「遠慮しなくていいのよ」と手を伸ばし続けた。
私はそのたび「すみません、今日はちょっと」とやんわり断っていたけれど、正直どこかで引っかかっていた。子どもが嫌がっているのに、なぜ毎回誘うんだろう。
目を離した数十分の間に
ある土曜の昼、公園のベンチで別の母親と立ち話をしていた。娘から目を離したのは、本当に数分のつもりだった。
ふと視線を戻すと、砂場に娘の姿がない。見回すと、公園の出口近くで女性が娘の手を引いて歩いているところだった。「おばちゃんちでおやつ食べよ、すぐそこだから」と声をかけながら、娘の手を引いて出口のほうへ連れ出そうとしていたのだ。
娘は泣きながら手を振りほどこうとしていた。
「いや! いやだぁ!」
その声で私は駆け出した。娘を抱き上げると、まだしゃくり上げていた。小さな手が私の服をぎゅっと握りしめて離さなかった。
女性に向かって、私ははっきり言った。
「娘が嫌がっています。今後は誘わないでください」
女性は「そんな、ただ遊びに誘っただけなのに」と言ったが、私はそれ以上取り合わず、娘を抱いたまま部屋に戻った。
「うちの子も同じことされました」
その翌週、公園でよく一緒になる別の母親から声をかけられた。三歳の息子を育てているお母さんだった。
「あの、305号室の方のことで聞きたいんですけど……うちの息子も、何度も家に誘われたことがあって」
聞けば、その母親も引っ越してきたばかりで団地に知り合いが少なく、誰に相談していいか分からないまま、半年近く我慢していたという。女性が声をかけてくるのはいつも、母親がちょっと目を離した一瞬だった。
「毎回私が目を離した隙に声をかけてくるので、正直怖くて。でも誰に言えばいいのか分からなくて。だからといって公園以外に遊べるところもないから、行かせるのもやめられずにいたんです」
二人で話すうちに、他にも同じような経験をした親子がいることが分かってきた。狙われていたのは決まって、親が少し目を離した瞬間の子どもだった。
私は、それを聞いてすぐに決めた。このまま黙っているわけにはいかない。
自治会を通して伝えたこと
夫は団地の自治会で役員をしていた。私は夫に事情を話し、これまでに他の母親から聞いた話も含めて伝えた。
夫は自治会の会合で、305号室の件を正式に取り上げた。管理会社にも連絡し、複数の保護者から苦情が出ていることを伝えた上で、今後同じようなことがあれば注意喚起の掲示を出す流れになった。
会合のあと、自治会長が305号室を訪ね、女性に直接伝えたそうだ。
「複数の保護者から、お子さんを誘うのをやめてほしいという声が出ています。今後も続くようなら、管理会社から正式に注意させていただきます」
それ以降、公園で女性を見かけても、母親たちは誰も子どもを近づけさせなくなった。
「あの人、また来てる」
そんな声が母親たちの間で交わされるようになり、女性から挨拶をされても、皆どこか距離を置いて応えるだけになった。
団地を去っていった隣人
それから数週間、305号室の女性は公園に来ても誰にも相手にされず、一人でベンチに座っているだけの日が続いた。
廊下ですれ違っても、以前のように娘へ声をかけてくることはなかった。
管理会社からは、苦情が続くようなら契約更新を見直すという話も伝えられたと、自治会長から聞いた。
秋口になって、305号室に「退去」の張り紙が出た。引っ越しのトラックが来た日、女性は誰にも挨拶をせずに団地を出ていった。
今も続く公園の時間
あの日声をかけてくれた母親とは、今もよく公園で顔を合わせる。息子さんと娘は年も近く、すっかり仲良しだ。
娘は今では公園に行くたび、楽しそうに走り回っている。あの日の怯えた顔を思い出すと、やっぱりあの時すぐに駆け寄ってよかったと思う。
さいごに
子どもが泣いて嫌がる仕草を見せたとき、それはもう立派なSOSだ。この出来事では、母親がすぐに動いたことで、同じように困っていた別の親子も声を上げられるようになった。遠慮して様子を見てしまいそうな場面こそ、子どもの「いやだ」を一番に信じてあげたい。あなたの周りにも、そんな小さなサインを見逃していないか、ふと振り返ってみてほしい。
※本記事は、実際の体験談をもとに作成しています。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
※本コンテンツ内の画像は、生成AIを利用して作成しています。


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