午前中のオフィスは落ち着いていた。スマホが震え、画面に夫の名前が出た瞬間、胸がざわついた。
「その給料なら早退で来いよ」
「今どこ? すぐ来て。大事な商談なのに、名刺入れと資料、家に忘れた。お前さ、その給料なら早退して持って来いよ」
言葉を聞いた瞬間、怒りが一気に上がった。
私は30代の事務職。今日は月末で、請求書の締め作業の真っ最中だ。
「無理。今は私も仕事中。自分の忘れ物は自分でどうにかして」
落ち着いて言ったつもりなのに、手は少し震えていた。
「無理。私も仕事してます」
「は? お前の仕事なんて、抜けても回るでしょ。子どもの送り迎えもいつもお前だし、今日くらいさ」
ああ、やっぱり。家事と育児は私の担当、私の仕事はサブ。前から感じていたことが、はっきり言葉に出た。
「だからこそ、今は抜けられない。締め日。私の同僚にも迷惑かかる」
「じゃあどうすんの? 客先で恥かくんだけど」
「タクシーで取りに帰るか、同僚に頼むか、会社のに聞いてどうにかして」
そう返すと、電話の向こうで舌打ちが聞こえた。隣の席の同僚が心配そうにこちらを見たが、私は小さく首を振った。
「スピーカーにするから、いいな?」
「もういい、スピーカーにする。部の皆に、お前が協力的じゃないって分かってもらうから」
何その見せしめみたいなやり方。
「勝手にどうぞ。ただ、私は勤務中。私の上司に説明するのはあなた」
短く言い切ると、少し沈黙があった。次の瞬間、別の低い声が混じった。
「いまの会話、こちらにも聞こえている」
電話の向こうでざわつきが止まった。夫の部長の声だと分かった。
「家族を呼びつけるな」部長の一喝
「失礼します。私は夫くんの部長です。まず、勤務中の家族を私用で呼びつけるのは許されない。段取りミスは本人が処理するのがルールだ」
夫が慌てて言い訳を始めた。「ち、違うんです部長、今日は特別で——」
「特別でも何でもない。忘れ物は本人の過失だ。社用便を使う、客先に連絡して調整する。やり方はいくらでもある。“安いから”と家族を動かす話じゃない」
電話の向こうで誰かが小さく「うわ」と漏らした。
「それと、いまの『その給料なら』という発言。社外の方に向けて言う言葉じゃない。自分の伴侶にも失礼だ。すぐに謝罪しろ」
部長の声は低く、逃げ道がない。
慌てた夫「申し訳ない…」
「……ごめん。俺が間違ってた。自分でどうにかする。客先にも連絡する。申し訳ない」
さっきまでの強気は消えていた。私は一呼吸おいてから答えた。
「分かった。私はここで仕事に戻る。今後、私の勤務時間に私用で呼び出すのはやめて。連絡は緊急時だけ」
「……はい」
通話を切ると、同僚が「大丈夫?」と小声で聞いてくれた。「もう大丈夫。締め、続けるね」と電卓を取り直した。
その日の夜、夫は沈んだ顔で帰ってきた。
「部長にこっぴどく叱られた。同行から外されて、午後は事務所で始末書。自分の段取り、家族への認識、全部見直せって」
「そうなんだ」
「本当にごめん。明日、改めて君の職場にも菓子折り持って挨拶に行く」
謝罪の言葉は、さっきの電話よりずっと素直だった。
その後、家事分担はこう変わった
翌日、夫は朝一番で私の職場に来て、上司に頭を下げた。
「昨日は妻の勤務を軽んじる発言をしてしまい、申し訳ありませんでした」
短い謝罪だったけれど、まっすぐだった。私の上司は苦笑しながらも、「家庭も仕事も段取りだよ。がんばって」と返してくれた。
帰宅後、私たちはテーブルに紙を広げた。家事と育児の洗い出し。ゴミ出し、洗濯、買い出し、保育園の送り迎え、予防接種の予約、保険や学校の手続き——これまで“なんとなく私”が担っていた細々をすべて書き出した。
「これ、半分は俺がやる。曜日で固定しよう。送りは俺、迎えは週3で俺。夜の食器は俺。忘れ物防止のチェックリストも作る」
夫は手帳に書き込み、スマホのカレンダーを共有にした。保育園や小児科の連絡先も夫のスマホに登録し、私だけに来ていた連絡網も見直した。
「あと、勤務中の連絡は要件を3つに分ける。“生死と安全に関わること”“どうしても今日中のこと”“それ以外”。一番下は業務後にしよう」
言われて初めて気づいた。夫なりに“仕組み”を作って、同じ過ちを繰り返さないよう考えている。
その週から、朝の台所に夫の姿が当たり前になった。通勤前にゴミを出し、子どもの連絡帳に目を通し、夕方の連絡も「今日は俺が迎え行く」から始まることが増えた。忘れ物も、チェックリストのおかげで激減した。
たぶん私は、黙って抱え込む癖があった。今回みたいに、言うべきときに短く伝えるだけで、流れは変わる。そう実感した出来事だった。
さいごに
「家族だから」と雑に頼るのと、「家族だから」と相手の時間を尊重するのは別物ですね。忙しいと、つい甘えてしまうこともあります。モヤッとしたら、どこで区切るかを言葉にしてみる。あなたなら、どう伝えますか?
※本記事は、実際の体験談をもとに作成しています。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
※本コンテンツ内の画像は、生成AIを利用して作成しています。


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