毎朝、同じ時間に同じホームに立っていると、周囲の景色はだんだん見慣れたものになっていく。
けれどある朝、その見慣れた風景の中で、自分の考え方の癖に気づいた。あとから思い返すと、少し恥ずかしくなった。
「何かやらかした?」とよぎった朝
通勤ラッシュのホームは、いつものように混んでいた。
一本の電車が出たあと、スーツ姿の男性が駅係員に話しかけているのが目に入った。
男性はスマホの画面を見せながら、ゆっくり日本語を選ぶように話していた。係員も路線図を指しながら説明している。
その様子を見たのは、ほんの数秒だった。
それなのに私は、一瞬こう思った。
「何かトラブルでも起こしたのかな」
そう考えた直後、自分でも驚いた。
男性は怒鳴っているわけでもない。係員も困っている様子はなく、普通に案内している。
乗り換えが分からないのかもしれないし、目的地への行き方を聞いているだけかもしれない。
それなのに私は、目の前で起きていることを勝手に「トラブル」に置き換えていた。
「なんでそう思った?」と自分に問い直した
次の電車を待ちながら、さっきの考えが気になった。
なぜ、私はそう思ったんだろう。
男性が日本語に慣れていないように見えたからだろうか。それとも、外国から来た人らしい男性が駅係員と話している、というだけで何か問題が起きているように感じたのだろうか。
でも、それは何の根拠にもならない。
私だって、初めて行く駅では乗り換えを聞くことがある。電車が止まれば、駅員に状況を尋ねることもある。
もし同じように日本人が路線図を指しながら駅員と話していたら、たぶん私は「道を聞いているのかな」と思っただけだった。
なのに、相手が外国から来た人のように見えたことで、私は無意識に「何か面倒なことが起きているのかも」と考えた。
そこまで気づいたとき、自分の中にも思い込みがあるのだと認めざるを得なかった。
どこで覚えた考え方なんだろう
私は普段から、「外国の人は怪しい」などと思って生活しているつもりはない。
それでも、その朝は一瞬そういう見方をしてしまった。
ニュースで見た出来事なのか、誰かとの会話なのか、SNSで流れてきた話なのか。どこで身についたのかは分からない。
ただ、いろいろな断片を見聞きするうちに、「知らない文化の人とトラブル」という組み合わせが、自分の中に無意識に残っていたのかもしれない。
そう考えると、「私はそんなふうに考える人じゃない」と否定するだけでは済まない気がした。
実際、その瞬間にはそう考えてしまったのだから。
「悪気はない」で終わらせない
もちろん、頭に一瞬浮かんだことだけで誰かに何かをしたわけではない。
男性に失礼なことを言ったわけでも、駅係員に何かを伝えたわけでもない。
それでも、「悪気はなかったから」で終わらせるのは少し違うと思った。
自分の中にそういう癖があると分かったなら、次に気づいたときに一度立ち止まればいい。
「本当にそう見える?」
「ほかの可能性はない?」
そう考え直すだけでも、最初に浮かんだ印象をそのまま事実だと思い込まずに済む。
しばらくすると、駅係員は男性に路線図を見せながら別のホームの方向を指した。男性は何度かうなずき、頭を下げてそちらへ歩いていった。
少なくとも、私が最初に想像したような騒ぎではなかった。
ごく普通の朝の、ごく普通のやり取りだった。
次は、最初から決めつけない
電車が来るまでの数分間、私はそのことを考えていた。
自分の中の思い込みを一度ですべてなくすことなんて、たぶんできない。
それでも、「今、自分は勝手に決めつけたかもしれない」と気づくことはできる。
次に同じような場面を見たら、最初から「何か問題を起こしたのでは」と考えるのではなく、まず目の前に見えていることだけを見るようにしようと思った。
困っているのかもしれない。道を聞いているのかもしれない。ただ話しているだけかもしれない。
分からないなら、分からないままでいい。
知らない相手の事情を、自分の想像だけで悪いほうへ埋める必要はない。
大げさな出来事ではない。ただ、自分の中にあった小さな思い込みに気づいた朝だった。
さいごに
人は、ほんの数秒で相手の状況を想像してしまうことがあります。その想像がいつも正しいとは限りません。
大切なのは、「今の判断には根拠があっただろうか」と、ときどき自分に問い直してみることなのかもしれません。
通勤や買い物の途中で知らない人を見たとき、自分はどんなふうにその人を見ているでしょうか。ふと決めつけていたことに気づいた経験はありますか?
※本記事は、実際の体験談をもとに作成しています。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
※本コンテンツ内の画像は、生成AIを利用して作成しています。


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