朝いちばんに窯の温度を確かめ、納品書をファイルに差し込む。
義実家の工房で、私は職人と事務の両方をしていた。
家族で回す仕事は嫌いじゃない。けれど、最近の夫の帰りの遅さと、裏返して置かれたスマホが気になっていた。
「彼女が跡継ぎ産んだ、離婚で」
その夜、シンクに皿を立てていた背中に、夫の声が落ちた。
「話がある。彼女が跡継ぎ産んだ。離婚で。慰謝料とか面倒なのはやめような。向こうの親も喜んでるし」
水を止めて、ふきんを置く。
「わかった。じゃあ、手続きは手順どおりにやろう」
夫は口角を上げた。
「お、話が早い。父さん母さんにも言っといて。工房のことは俺が継ぐ。彼女と子を迎えるから」
私は思った。ここで感情をぶつけても、話は進まない。
「義父母の前で全部話しましょう。日曜の午前、時間ありますか」
夫「家業はうちの血で回る」
翌朝も、夫は余裕の口ぶりだった。
「家業はうちの血で回るんだよ。お前は外から手伝ってただけ。書類は母さんがやるし、ハンコは俺が押す。だから、離婚しても仕事はそのまんま」
「そう。じゃあ、その“書類”を一緒に確認しよ。私が持ってる分は全部、持っていくね」
棚から黒いバインダーを三冊出す。
工房の賃貸借契約、損害保険、火気使用の届出、オンラインショップの運営者情報、主要口座の通帳とカード、取引先リスト。
どれも、私の名前で管理しているものばかりだ。
夫は見ようともせず、パンをかじった。
「細かいのは任せるよ。日曜、親に報告な」
私は準備を始めた
その日の午後、私は机に書類を広げ、一覧表を作った。
三年前、前任の事務担当さんが高齢で退いたとき、義父に頼まれて私へ契約と口座の管理が順次切り替わった。夫からのメッセージにも当時の「やっておいて」が残っている。
念のため、離婚の相談も専門家に予約を入れた。必要な書類、今後の連絡の仕方、公正証書の作り方。手順をメモにまとめる。
日曜に配るため、名義変更に必要な費用と手続き、講習の有無、連絡先も一枚に整理した。感情の言い合いではなく、決めるべきことを決めるために。
義父母の前で、私は一覧を置く
日曜の午前、義実家の座敷。
義母がお茶を並べ、義父は背筋を伸ばして座っていた。夫は早口で切り出す。
「彼女が子ども産んだ。だから離婚する。工房は俺が回す。親父もそのほうが安心だろ」
義母が私を見た。
「あなたは、どういうつもりなの」
私は持ってきたバインダーと一覧を座卓に置いた。
「離婚の手続き自体は進めます。ただ、仕事で私の名義や管理になっているものは、今日から順番に外します。ここに一覧があります」
一冊目を開く。
「工房の賃貸借契約者は私です。更新は来月。継続はしません。次の契約者が決まるまでは、契約どおり私が鍵を管理します」
義父が眉を上げ、老眼鏡を手に取った。
「待ちなさい。契約者が君?」
「はい。前任の方が高齢で、三年前に私へ切り替えました。契約書のここです」
二冊目。
「工房で使うガスと火気の届出、責任者は私。保険も私が契約者。事故の連絡先は私の番号。名義を変えるには申請と講習が必要で、最短でも1か月以上かかります」
義母の手が湯のみの持ち手で止まった。
三冊目。
「口座と決済の管理。材料費や外注費の引き落としは、この口座。カードは私が保管。オンラインショップの運営者情報も私。アカウントの権限移管には書面と本人確認が必要です」
夫が初めて私の手元を見た。
「ちょっと待て。それ、親父の名前じゃなかったのか」
「途中まではそうでした。でも、私が入出金を回すようになってから、まとめて切り替えました。あなたは『やっておいて』って言ったよね」
「じゃあ、私の名義は外します」
義父が深く息を吐いた。
「離婚は君たちの問題だ。ただ、工房は生活がかかっている。どうすれば続けられる」
私は一覧の下段を指さした。
「ここに“引き継ぎに必要な手順と費用”を書いています。名義変更、講習、保証金の再設定、決済の切り替え。全部でこれくらい。費用の負担と、私の手をどこまで使うかを今日決めてください。離婚に関しては、不貞を認めるなら、慰謝料と財産の清算を含めて公正証書にします」
夫が声を上げる。
「脅しかよ。それ。俺の家の仕事だぞ」
「脅しじゃない。今ある事実の整理だよ。『家業はうちの血で回る』って言ってたけど、今回ってるのはこの名義と口座と申請。私が責任を持ってる分は、外します」
義母が夫の袖を引いた。
「黙って。あなた、書類のことは何も分かってない」
義父はメモを取り始め、私に向き直る。
「分かった。今日は、止めるものと継続するものを仕分けしよう。必要な費用はこちらで用意する。離婚の話は別で進めなさい」
夫は言葉を探した末、短く言った。
「彼女と子は、どうするんだよ」
義父が低い声で答える。
「まず責任を取れ。順番を間違えるな」
「手続き、今日から始めます」
帰り際、私は鍵の管理簿に新しい記録を付けた。
「じゃあ、今日から手続きを始めます。工房の鍵は当面私が持ちます。出入りが必要なら、事前に連絡してください」
義母がうなずいた。
「分かったわ。お願いするね」
玄関先で、夫が小声で言う。
「なあ、今は見逃してくれよ。彼女、引っ越しの準備で…」
「離婚は進めるよ。手順は全部伝えたから。連絡は弁護士を通して」
私は車に乗って、バインダーを助手席に置いた。
その後
1か月で、工房の賃貸は義父名義に切り替わった。
必要な講習と申請は、義父母が交代で受けた。取引先への連絡は、私が作ったテンプレートを使って連絡網に沿って送った。
離婚は公正証書で合意。慰謝料と清算金は分割で支払われることになり、最初の入金があった日に、小さなワンルームを借りた。中古の小型窯を入れ、個人の屋号で新しい工房を始めた。
最初の注文は、以前イベントで知り合った個人客から。発送ラベルを貼る手が少し震えたけれど、封を閉じたら落ち着いた。
半年後、義母からメッセージが来た。
「今、なんとか回してる。あなたの一覧、あれがなかったら倒れてた。ありがとう」
夫のことは聞かなかった。私は窯の前で、次の釉薬を量った。
さいごに
家と仕事が重なると、気持ちより名義や手順が物を言う場面がありますね。誰の名前で回っているのか、見直すだけでも備えになります。身近な手続き、もし明日変えるなら何から動かしますか?
※本記事は、実際の体験談をもとに作成しています。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
※本コンテンツ内の画像は、生成AIを利用して作成しています。


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