その日、私は2週間前から予約を入れていた美容院に向かっていた。
仕事帰りのちょっとしたご褒美のつもりで取った、お気に入りの店の予約。
まさか入り口をくぐった瞬間に、あんな場面に立ち会うことになるとは思ってもいなかった。
「顔なじみなんだから、私を先にやって当然でしょ」
引き戸を開けると、受付カウンターの前に40代くらいの女性が仁王立ちしていた。
声が大きく、すでに場の空気がぴりっとしていた。
「ちょっと、聞いてる? 私、ここに何年も来てるのよ。顔なじみなんだから、先にやってもらって当然でしょ」
スタッフの若い女性——20代半ばくらいだろうか——は、表情を崩さずに立っていた。
私はカウンターから少し離れた場所で、思わず足を止めた。
女性の話を整理すると、どうやら予約を入れずに飛び込みで来店したらしい。
「今日は混んでいてご案内が難しい状況です」とスタッフに告げられたところで、あの一言が飛び出したようだった。
——顔なじみだから先にやって当然、か。正直、耳を疑った。
「お金だってたくさん落としてきたのに、それでも無理なの?」
女性はそこで引くことをしなかった。
むしろ、声のトーンをひとつ上げた。
「もう何年通ってると思ってるの? お金だってたくさん落としてきたわよ。それでも無理なの? おかしくない?」
「昔はもっと融通が利いたのに」「どうせ空きがあるんでしょ」「上の人を呼んで」。
ひとつひとつのセリフが、カウンターに叩きつけられるように続いた。
——正直、見ているこっちまで胃が痛くなってきた。
予約を入れた私でさえそうなのだから、スタッフはどれだけしんどいだろう。
それでも彼女は、「少々お待ちください」とだけ言い、誰も呼ばず、静かに引き出しを開けた。
台帳を静かに開いた、あの一瞬
取り出したのはA4サイズの台帳。
今日の予約一覧が見えるページを、カウンター越しに女性の側へ、ゆっくりと向けた。
そして、穏やかに——しかしはっきりと言った。
「本日の枠はこちらです。ご覧いただくとわかるように、すべて埋まっております。お名前はどちらにもございません」
追い打ちも、皮肉も、一切なし。
ただ、事実だけを、記録の形で見せた。
女性は台帳に視線を落とした。
そのまま、2秒、3秒……。
「……」
さっきまでの勢いが、嘘のように消えた。
「顔なじみだから」「お金を落としてきたから」「融通を利かせて」——それらの言葉が、ぎっしり埋まった予約欄の前では、何の効力も持たなかった。
「……また改めて予約します」女性が静かに踵を返した
しばらく台帳を見つめていた女性は、小さな声でそう言い、店を出て行った。
嵐のような時間が、あっけなく終わった。
予約済みの私が迎えた、いつも通りの笑顔
スタッフはすぐに私の方を向いて、「お待たせしました、ご予約のお客様ですね」と、何事もなかったような笑顔で声をかけてくれた。
その落ち着きぶりに、私は思わず「お疲れ様です……」と口をついて出た。
施術中、担当スタッフが少し苦笑いしながら教えてくれた。
「飛び込みのお客様自体はよくあるんですが、ご予約のお客様を後回しにするわけにはいかないので……」
そりゃそうだ。
声が大きい人を優先したら、ちゃんと予約を入れた人が割を食う。それこそ不公平というものだ。
帰り道、なんだか気持ちが軽くなっていた。
ご褒美のヘアカットより、あの「台帳を静かに開く」一瞬の方が、ずっと印象に残った日だった。
さいごに
「長年の常連」も「たくさんお金を使った」も、その日の予約台帳の前では関係がなかった。
感情論がどれだけ大きな声を上げても、事実と記録はそれより静かで、ずっと強い——そう気づかせてもらった出来事でした。
理不尽な場面ほど、冷静に「事実を示す」ことが一番の答えになるのかもしれませんね。
※本記事は、実際の体験談をもとに作成しています。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
※本コンテンツ内の画像は、生成AIを利用して作成しています。


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