生後4か月の娘を連れて、初めてひとりで電車に乗った日のことは、たぶんずっと忘れられない。
嬉しい思い出としてではなく――あの車内の空気ごと、記憶に刻みついている。
「たたむのが常識でしょ」開口一番の言葉
平日の昼過ぎ、ホームで数本やり過ごしてから、比較的すいた車両を選んで乗り込んだ。
ベビーカーは折りたたまず、ドア付近のスペースに斜めに寄せて、なるべく邪魔にならないよう立っていた。
次の駅で乗ってきたのが、紺色のジャケットを着た50代くらいの女性だった。
乗るなり私のベビーカーに目を止め、「これ、じゃまじゃない?」と低い声で言った。
最初は独り言かと思った。でも違った。
「混んでるんだから、たたむのが常識でしょ。赤ちゃん連れなら、まわりへの配慮が必要じゃないの」
声は大きくなかった。でも、はっきりと、私に向けられていた。
「みなさんも迷惑ですよね」──周囲を巻き込もうとする
言葉が出なかった。娘は奇跡的に眠っていて、起こさないよう声を出すのも怖かった。
女性は続けた。「ねえ、みなさんもそう思いませんか。こんな時間にベビーカーって、ちょっとどうかと思いません?」
周囲に同意を求めるように視線を走らせる。——やばい、これは逃げられない。
隣に立っていたスーツ姿の男性、斜め後ろの高齢女性、ドア横でスマホを見ていた若い男性。誰もが目を伏せた。
私は娘のおくるみをぎゅっと握りしめるしかなかった。
「赤ちゃんがいるのはわかる。でもルールはルールでしょ。社会に出るなら社会のルールを守らないと」
そこまで言われたとき、正直、泣きそうだった。——私が間違っているのかな、と。
隣の男性が、静かにスマホを取り出した
そのとき、さっきまで目を伏せていたスーツ姿の男性が、おもむろに画面を操作した。
「あの、すみません」
低くて落ち着いた声だった。女性が振り向く。
「この路線の公式サイトに書いてあります。『ベビーカーはたたまずにご乗車いただけます。混雑時もそのままご利用ください』——公式のアナウンスです」
女性は一瞬、言葉に詰まった。「でも、混んでる時は……」
「公式にそう案内されています」
それだけ言って、男性はまた静かに前を向いた。余計な一言は何もなかった。
「お客様はルール通りのご利用です」──係員の静かな一言
ちょうどそのタイミングで電車が駅に滑り込み、混雑確認のためかホームで確認している係員に女性はすかさず声をかけた。
「ベビーカーって、混んでる電車でもたたまなくていいんですか」
係員は落ち着いた表情で答えた。
「はい。ベビーカーはたたまずそのままご乗車いただけるよう案内しております。こちらのお客様はルール通りのご利用です」
そして私に向かって、「ご不便をおかけしました」と頭を下げてくれた。
女性は何も言わなかった。
次の駅で、静かに降りていった。
女性が降りた後、車内に戻ってきた穏やかな空気
さっきの男性がこちらを見て、小さく「大丈夫ですか」と言ってくれた。
声が震えないようにするのが精一杯で、「ありがとうございます」とだけ返した。
娘はまだ眠っていた。何も知らない顔で、すやすやと。
——あなたは何も悪くない。私も、悪くなかった。
終点の駅を降りるとき、ようやくそう思えた。
さいごに
あの男性の「公式にそう案内されています」という一言は、声を荒げるでもなく、相手を責めるでもなく、ただ事実だけを静かに置いてくれるものでした。
あれほど強い言葉はなかったかもしれませんね。
ルールを知っているだけで、少し胸を張って乗り込める――そんな日が来るといいなと思います。
※本記事は、実際の体験談をもとに作成しています。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
※本コンテンツ内の画像は、生成AIを利用して作成しています。


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