生後7か月の娘をベビーカーに乗せて駅に来るたび、ちょっとした緊張感がある。
エレベーターの前に立つとき、誰かの視線を感じるような、あの感覚だ。その日、それは緊張どころではない出来事になった。
「車椅子優先でしょうが、わかってる?」
昼過ぎの地下鉄駅。改札を抜けてホームへ向かうエレベーターの前で、私は娘のベビーカーを押しながら順番を待っていた。
エレベーターが到着し、扉が開いた。中には誰もいない。さあ乗ろうとしたその瞬間、後ろから声が飛んできた。
「ちょっと待って。車椅子優先でしょうが」
振り返ると、40代くらいの女性が腕を組んで立っていた。
車椅子でも杖でもない。大きなトートバッグを肩にかけた、どこからどう見ても健康そうな方だった。
「あなた、健常者でしょ。ベビーカーなんて押して歩けるんだから、階段使いなさいよ」
——え。
声が出なかった。娘はまだ7か月で、ベビーカーを畳んで、階段を?
——無理に決まってる。頭の中でいろんな言葉が浮かんでは消えた。
「私たちが先よ」剣幕はどんどん大きくなって
女性は引き下がらなかった。
「子どもがいれば何でも許されると思ってるの?車椅子の人が来たらどうするの」
周りの乗客がちらちらとこちらを見ている。娘はきょとんとした顔で、私の顔を見上げていた。
私は言い返せなかった。正直、「ベビーカーはエレベーターを使っていいのか」という確信が、咄嗟には出てこなかったのだ。
「すみません……」と口から出かけた、まさにそのとき。
エレベーターの扉が閉まった。
女性はさらに声を大きくした。「ほら、また待たなきゃいけないじゃない。最初から階段行けばよかったのよ」
私はベビーカーのハンドルをぎゅっと握った。
「ベビーカーも、対象です」静かな声が割り込んだ
次のエレベーターを待っていると、隣に人が増えた。
紺色の制服を着た駅員の男性と、その少し後ろに、首から「バリアフリー推進」と書かれたIDカードをさげた女性スタッフが立っていた。巡回中だったらしい。
女性がまた口を開こうとした。「このベビーカーの人が——」
駅員の方が、穏やかに、しかしはっきりと言った。
「お客さま、ベビーカーはエレベーターの優先利用対象に含まれています。鉄道各社共通のルールで、当駅でも明記しております」
——そうだ。知ってたはずなのに、大きな声の前で揺らいでいた。
IDカードの女性スタッフが静かに続けた。
「ベビーカーのお客さまは段差や荷物の兼ね合いで階段が困難な場合があります。エレベーターは皆さんでご利用いただくものです」
女性は、一瞬だけ何か言いかけて——口を閉じた。
「……先に乗っていいわよ」別人のように小さな声で
エレベーターが再び到着した。
駅員の方が扉を押さえてくださり、「どうぞ」と私に視線を向けてくれた。
女性は黙ったまま、一歩横にずれた。さっきまでの剣幕はどこへやら、目を合わせようとしない。
「……先に乗っていいわよ」
小さな声だった。謝罪ではなかったけれど、あの怒鳴り声に比べたら、別人のようだった。
私はお礼を言って、娘と一緒にエレベーターに乗り込んだ。
駅員の方に「ありがとうございました」と頭を下げると、「お気をつけて」と笑顔が返ってきた。
娘と二人、ホームに降り立って
ホームに出ると、娘がアーアーと声を上げた。いつもと変わらない、無邪気な声だった。
しばらく動けなかった。泣きそうというより、なんだかぼうっとしていた。
——言い返せなかったことが悔しいというより、「知らなかったら、そのまま謝っていたかもしれない」という事実の方がずっと怖かった。
あの駅員さんとスタッフの方がいなかったら、私は「すみません」と言って、階段の前で途方に暮れていたかもしれない。
あれからは、乗り換えのたびに少しだけ胸を張れるようになった。ベビーカーでエレベーターを使うとき、もう視線を怖いとだけは思わなくなった。
さいごに
正しいことを知っていても、大きな声の前では揺らいでしまうことがある。でも、ルールはちゃんとある
——ベビーカーも、エレベーターを使っていい。それだけで、少し胸を張れるようになれるかもしれませんね。
※本記事は、実際の体験談をもとに作成しています。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
※本コンテンツ内の画像は、生成AIを利用して作成しています。


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