車で山道を抜け、湯けむりの街に着いた。木の香りが強い入り口前で、荷物を下ろす。
「着いたね。やっと休める」
そう言ったとき、妻がわずかに肩の震えた気がした。ドアの向こうで、フロントの男性がこちらを見て小さく頭を下げる。「先日もどうも」と口が動いたのが見えた。
妻は一歩踏み出しかけて、止まった。
「…今日は帰ろう」
え?と声が漏れた。予約は僕が有給を合わせた週末。ちょっと背伸びして取った宿だ。
「今日は帰ろう」入り口で止まる妻
「体調悪い?」
「なんか…気分が無理。ごめん。キャンセル料は…家計からでいい?」
妻は視線をフロントに向けず、入口から下がった。僕が顔を上げると、スタッフが「またお待ちしてます」といつもの調子で言った。『また』という言葉だけが耳に残った。
僕らは来たことがないはずだ。けれど妻は駐車場から入口までの通路を迷わず歩いていた。さっきの「先日もどうも」。胸の奥に、小さな違和感が残った。
「分かった。戻ろう」
そう言って車に引き返した。車内で妻は「ごめん」を繰り返すだけだった。
「ここ、初めてじゃないよね?」違和感が膨らむ
翌日、共通口座にキャンセル料の通知が来た。額は痛い。引き落とし前に家計簿を確認しようと、共通で入れているアプリを開いた。
履歴に、昨夜の旅館名がいくつも並んでいた。平日の夜に2回、3回。電子明細には「大人2名 季節の会席」「スパークリング付プラン」と出ている。利用日は、僕が出張で家にいなかった日と重なっていた。
喉の奥が熱くなるより先に、事実を並べた。家計のカードを使用した履歴が、同じ宿で、2名分の夕食や宿泊に使われている。
「女子会?」ポイント履歴の“2名”が物を言う
詰める言い合いにしたくなかった。一度だけ、逃げ道のない形で確認する。夜、食器をしまい終えて、テーブルにスマホを置いた。
「これ、見て。ここ、前にも来てるよね?」
履歴の旅館名と日付、“旅館名”の表示を指でなぞる。妻は画面を見ないまま、「女子会だよ。近場で贅沢しよって」と言った。
「毎回、同じ旅館で、平日で? 出張に出てた日の夜も入ってる。女子会、全部ここ?」
妻の指先が止まった。僕は履歴を月をまたいでスクロールした。何件も続く“2名”。
「…最初の一回は、ほんとに女子会。写真も撮った。だけどそのあと、別部署の人と連絡とるようになって…二人で来た。泊まったこともある」
「相手は」
「会社の同僚。未婚。私が既婚なのは知ってる。飲みの流れって言い訳にして…関係もあった。」
「昨日、入り口で帰るって言ったのは」
「フロントの人、何度か行ってるから顔見知りでさ。あなたと一緒にいるの見られたくなかった。『この前の人と違う』って、あの人なら気づくと思って。怖くなった」
言い訳が崩れていくのがわかった。
「別居しよう」条件と返金を伝える
「別居しよう」
口から出た言葉は短かった。
「待って。やり直せない? 相手とは切るから。ほんとに。会社も異動願い出す」
「家計で貯めたお金を、僕がいない平日に使った。昨日のキャンセル料も『家計で』って言ったよね。まずそこを戻してほしい。今までの支払額とキャンセル料を、君の個人口座から共通口座に振り込むこと。家のカードは止める。部屋は今月末までに出て」
「返す。返すから…話し合いの場、作れない?」
「今日は一度だけ確認した。君が認めた。だから決めた。手続きの連絡はするけど、それ以外の話は受けない」
妻は唇を噛んで、うなずいた。その夜のうちに、共通口座へキャンセル料が振り込まれ、翌日には今までの支払額も入金された。僕は履歴のスクリーンショットを通帳のメモに添え、共有のカードを停止した。
妻の実家へ、段取りを淡々と進める
妻は自分の親に電話をし、「会社の同僚と関係を持った。別居する」と伝えたという。翌日、妻の母から僕に連絡があり、「ご迷惑をかけてすみません。荷物の件で私が伺ってもよいでしょうか」と言われ、日程を決めた。
数日後、妻は実家へ移った。合鍵はポストに返され、光熱費の名義変更もした。
その後
家の中の音が一気に減った。冷蔵庫の在庫を見た。仕事帰りには、市の無料相談に寄って手続きの順番を聞いた。
妻からはメッセージが数通届いた。「相手とは連絡を絶った」「会社は配置換えを願い出た」「もう一度話したい」。僕は「鍵は返ってきた。口座の解約も完了。荷物の残りは日曜に」と必要なことだけ返した。
温泉の灯りと木の香りは、しばらく遠い。でも、見たものは消せない。入り口で止まった理由は、もうはっきりしている。
さいごに
入り口での違和感から、カードの利用明細という身近な記録が決め手になりました。家計の共有をほどく一歩は、とても勇気がいりますよね。
予定をひっくり返されたとき、あなたなら何を見直しますか。財布やアプリの設定、後回しにしていませんか。まず自分の暮らしを守るところから、少しずつ手をつけていけますように。
※本記事は、実際の体験談をもとに作成しています。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
※本コンテンツ内の画像は、生成AIを利用して作成しています。


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