改札の前で、私はスマホの画面を何度も確認していた。残高は12円。夫に「電車代だけでいい、数百円でいい」と頼んだあの朝のことを、今でも鮮明に思い出す。
「節約は家族みんなのためだろ」という言葉の重さ
結婚して3年。夫の口癖は「節約は家族のためだ」だった。
生活費は夫が管理していて、私には月に数千円だけ「おこづかい」が渡されていた。食費も日用品も、夫が指定したスーパーで夫が決めた金額の範囲内で買う。交通費は「必要なら都度申請する」というルールで、外出のたびに行き先・目的・かかる時間を報告しなければならなかった。
友人との食事はもちろん、実家への帰省も「無駄遣い」として却下された。
「おかしい」と思いながらも、私は「これが節約というものかもしれない」「夫がしっかり管理してくれているから大丈夫」と自分に言い聞かせていた。
「財布は家にある、取りに帰れ」
あの日は、かかりつけの病院へ行く予定だった。
ICカードの残高が足りないことに気づいたのは、駅に着いてからだ。夫に連絡すると、既読はついたものの返信はなく、しばらくしてようやく来たメッセージは「財布は家にある、取りに帰れ」の一言だった。
家から駅までは徒歩20分。家まで戻って出直せば、それだけで40分のタイムロスになる。どうあがいても診察の予約時間には間に合わない。
もう一度「200円でいいからチャージ代を送金してほしい」と送ると、「そんな無駄な送金はしない。家に置いてある現金を持っていけ」と返ってきた。
改札の前で立ち尽くしながら、私はその場でどうすることもできなかった。——情けないとか悔しいとか、そういう感情より先に、ただ茫然としていた。
「少し、話せますか」
改札の前で立ち尽くしてから、どのくらい時間が経ったか。
「大丈夫ですか?」
振り返ると、40代くらいの女性が立っていた。紺色のジャケットに小さなバッジをつけていて、「困っていそうだったので」と、穏やかな口調で声をかけてきてくれた。
女性支援に取り組むNPO団体のスタッフで、定期的に駅周辺でアウトリーチ活動をしているのだという。話すつもりなんてなかったのに、気がつけば改札脇のベンチで、ぽつりぽつりと状況を話していた。
「それは経済的DVという名前がついています」
その言葉を聞いたとき、頭の中で何かがカチッとはまった感覚があった。「DV」という言葉はずっと「暴力」のことだと思っていた。お金の管理がそれにあたるなんて、考えたこともなかった。
スタッフの女性は押しつけがましくなく、ただ丁寧に、相談窓口の連絡先が書かれたカードを渡してくれた。「急がなくていいです。でも、覚えておいてください」と。
結局、その日は病院の予約をキャンセルして家に戻るしかなかった。「病院にすら行かせてもらえないんだ」という虚しさが、じわじわと胸を締め付けた。
弁護士が、夫の前に座った日
カードを受け取ってから2週間、私はそれをポーチの奥にしまったままにしていた。
でも、ある夜また夫に提出する買い物申請メモを書いているとき、「なんで私、こんなことまで許可をもらわなきゃいけないんだろう」と猛烈に嫌気がさし、ふとカードを取り出した。思い切って電話をかけると、親身に話を聞いてくれた。
何度か相談を重ねる中で具体的な解決策を提案してもらい、NPOのサポートのもと、弁護士が同席する場で夫と話し合いをすることになった。夫は最初「家族のルールに外部が口を出すな」と強い口調で言った。
でも弁護士から、現行の状況が経済的DVに該当しうること、法的な対処の選択肢があることを淡々と説明されると、だんだんと言葉数が少なくなっていった。
「……わかった」と夫が言った瞬間
弁護士が「奥さんが自由に使えるお金がないのは、生活の自立を妨げています」と静かに言ったとき、夫はしばらく黙った。
そして絞り出すように「……わかりました」とだけ言った。
あれほど強気だった夫が、専門家を前にして言葉を失っていくのを見たのは、初めてのことだった。「家族のルール」という鎧が、静かに剥がれていく瞬間だった。
改札を、自分のお金で通り抜けた日
それから生活は少しずつ変わった。
生活費の管理が共有になり、私名義の口座に毎月一定額が振り込まれるようになった。「買い物申請メモ」も「報告」も、なくなった。
変化を実感したのは、病院に行く朝だった。夫に許可を取らず、ただ電車に乗った。
たった200円のICカード残高なのに、改札をタッチして通り抜けたとき、なぜか涙が出そうになった。——こんなことが、ずっとできなかったんだ、と。
あの駅のベンチで声をかけてくれた女性に、もう一度お礼が言いたいと思っている。
さいごに
「節約」という言葉は、時にとても都合よく使われることがある。お金だけでなく「動く自由」まで管理されていても、それが「家族のルール」とされれば気づきにくい。一人の声かけが出口を照らすこともある、と知っておくだけで少し違うかもしれない。
あなたの周りに、同じように立ち尽くしている人はいませんか?
※本記事は、実際の体験談をもとに作成しています。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
※本コンテンツ内の画像は、生成AIを利用して作成しています。


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